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『ナレノハテ』 脱家畜化するコンテンポラリーダンス

その日、私の目の前にあったのは、三個の異形の肉体だった。
切り込みの入った皮革に手足を絡め捕られた男たちが、もがき、あがき、のたうちまわる。
小さく跳ねたかと思いきや倒れ転げ、起き上がろうにも起き上がれず、無様に顫動する肉体。
彼らは、おそらく踊ろうとしていた。
拘束されていることすら知らぬまま、己の不自由さにも気が付かず、必死に踊ろうと。
無音の中、彼らの息遣いと呻き声、そして肉が地を這う音が鈍く響く。
本作は、JCDN(NPO法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク)が主催する「踊りに行くぜ!!Ⅱ vol.5」(会場:アサヒ・アートスクエア)で上演された『ナレノハテ』と題されたダンスである。
彼らの衣装が平服であることは、特権性のない一般市民の象徴であり、そこに絡みつく皮革は、己を縛る社会制度・規範とも見なせるだろう。
ここには、表現規制や風営法の基に禁じられたダンスなど、様々な制度で雁字搦めにされた現代日本人の様相が仄見えてくる。
彼らは自縄自縛したうえで、自由に踊れないことにもがき苦しむのだ。
まさしく現代人の、舞台人の、文明社会の、ナレノハテ。
そこに転がるのは、一つの肉塊に還元された、人間の矮小性である。
と、私はこのダンスを観ながら考えていた。
ダンサーの一人がおもむろに皮革を脱ぎ、それを見つめながら、即興の独り芝居を始めるまでは。

「これが怠惰です。やめてしまう。修道僧たちは厳しい戒律の中にいる。その頭上には白日の太陽がある。太陽に照らされると、今まで何をやっていたのか白日の下に曝されてしまう。今までやってきたことは何だったのか、それでやめてしまう。そんなときに、自分の中にある欠乏の……」
「そういった説明はどうでもいいからさ、ちょっと下向くのやめてもらえる? 内向的に見えてしまうからさ」
「えっなんでですか?」
「いや、だから内向的に見えちゃうからさ、ちょっと遠くの方を見てもらっていい?」
「なんで遠くの方を見なきゃいけないんですか?」
「だから、下向くと自分の中に何かあるんじゃないかって探してるような内向的な表現に見えてしまうから……」
「いや、いま怠惰が白日の太陽に曝されて、それで、こう、自分は何だったんだろうって、自分の中の規範というんですかね、縛っているもの、自分を不自由にしていたもの、そういった価値観みたいなものを……」
「そういう説明はいいんだよ、説明は。見た目で変わったっていうのを見せたいから、こうやって脱いでね、こう変わりましたっていうのを見せたいから遠くを見てって言ってるの」
「そんなのこうやって脱いだらさ、革からこうやって出てきたら変わったってことは分かるわけじゃないですか」
「なにダジャレみたいなこと言ってるんだ! 遠くを見るっていうのは見せ方なんだよ」
「それだと意味が変わってしまう! じゃあなんですか、こういった制度を批判しておきながら、舞台の上で制度的なことをやりたいんですか」
「お前、本当のことみないなことやりたがってるの? 本当のことがやりたいんだったらわざわざ舞台でやる必要はないだろ。それなら家でやれよ!」
「……家でこれやるわけないでしょう! 家でやるんだったら普通に怠惰を考えて終わりですよ。これだってわかりやすくしてるんです。最初のしょうがない嘘ですよ。これをただの革だって思わない人もいっぱいいるんだから」

速射砲のように繰り出される独り芝居。
この舞台を作る際に、演出家と演者の間で交わされたであろうやりとりが、あけすけに暴露される。
あたかも、美しい顔に水をぶっかけられ、必死の形相でほどこしたメイクの痕跡が流れ出てしまったかのように、ひた隠しにするべき辛苦の跡がまざまざと露呈する。
それは恥部の露出と同じく滑稽である。
さらに15分ほどもダンスを見せられていた観衆は、すでにそこから社会規範・社会制度などに縛られた現代人というテーマを読み取っているのだが、その読み自体もここに来て突如相対化されるため、必死に意味を読み取ろうとしていた行為が全て裏切られる。
こうした鮮やかな裏切りと、作為の暴露によって、観客席にはどっと笑いが押し寄せる。

さて、残りの二人は何をしているのだろうか。
彼らは踊り続ける。
一人は皮革を脱して舞台をうろつきまわり、もう一人は皮革に拘束されたまま転げまわる。
かくして舞台上には、「踊る者」と「語る者」の二項対立が生じた。
踊る者は舞台上で踊り続け、語る者は舞台裏を語り続ける。
語る者が「革が頭上から落ちて彼に直撃する」などと告げると、予告通りに踊り手に皮革が直撃する。
ショスタコーヴィチの『革命』が鳴り響くと、これも音響スタッフが流していることを揶揄する。
そのたびに笑いが起こる。
この状況をスクリーンで例えるならば、画面の片側には映画の本編が、もう片側にはメイキング映像が流れていることになる。
そもそも「演じる」ということは、真実らしく振舞うことである。
痛くもないのに痛いかのように振る舞い、死んでもないのに死んだ振りをする。
真実らしくなればなるほど、その演技は良いものとされるのが現代演劇だ。
しかし本作では、「語る者」が真実に見せかけた仮面の裏側の素顔を暴露する。
真実を仮構するべき舞台上に、常に虚構性がオーバーラップしてくる。
即ち、舞台の生成と解体が同時に起こるのだ。

虚構性を告げられてなお、踊ることを止められぬダンサー。
嘲笑されながらも、踊り続ける身体には、なにか鋭い悲愴がある。
笑いの果てが悲しみであり、悲しみの果てが笑いであるような、言ってしまえば「笑い」というもののナレノハテが、のたうち、さすらう身体に凝固している。
この舞台には、身体と言語の、生成と解体の、嘲笑と悲哀の、未知と既知の、熾烈な闘争の火花が散っている。
このダンスは、それ自体が自己批判であり、一つの苛烈な「問い」を突き付けてくる。
――なぜ踊るのか。
――なぜ演じるのか。

舞台芸術の根源は、洋の東西問わず神事と結びついている。
ギリシア悲劇にしてからが、神々に奉納されるものであった。
だが神を素朴に信じることができなくなった現代において、その演舞を捧げる神がいなくなった舞台において、演者・作者は何を成すべきなのだろうか。
舞台芸術における「自己表現」というものは、かくして勃興する。
誰のためでもない、自分のために踊っている、演じているのだと。
だが、語り手は怒声を上げる。「それなら家でやれよ!」。
たしかに自分のためだけならば、わざわざ舞台に立つ必要もないだろう。
では、観客のためだろうか。
お金を支払って観に来た観客を満足させるために舞台を創る。
社会や共同体のために創る者もいるだろう。
能楽や一部のバレエ作品にその血脈が保存されているように、神・霊を意識して舞台を創る者たちも残っている。
だが、彼らはそのいずれにも与さなかった。
否、与せなかった。
その悲愴なまでの「疎外性」は、のたうち、さすらう身体となって舞台に現れる。
いかなる意味にも成れぬ身体。
――なぜ踊るのか。
――なぜ演じるのか。

ギリシア悲劇においては、人間の知恵は必ず神の前に罰せられる。
それを奉納することよって人間は神への恭順を示した。(詳しくは5月1日刊行の美学文芸誌「エステティーク vol.2 特集:狂」所収の『芸術と猥褻-狂神ディオニュソスの呼び声』を参照されたい)
舞台の構成は神々によって支配されていた。
その死、その痛み、その苦しみには、たしかな意味と意義が存在していた。
だが本作における舞台上の死には、いかなる意味も生じない。
語り手は自らが予告した通り、天井から落ちてくる皮革に打たれて倒れる。
「これが死です」と言い残して。

さて、無益な死が舞台上の全ての身体に訪れた時、死んだはずの踊り手がむっくと立ち上がり、やおらポケットに手を突っ込むと、一片の紙切れを取り出す。
そこに記されているのは、『ゴンザーロ』と題された短いテクストである。
彼はそれを説教節に似た節回しで朗誦する。
それは、ほとんどエレジーのように舞台に沁みわたる。
ゴンザーロはシェイクスピアの『テンペスト』に登場する人物であり、近代国家とは対極にある原始的な理想国家を語った老顧問官である。
テクストの『ゴンザーロ』では、この老顧問官に応答して、一つの理想国家について語る。
おそらく、その国家とは「舞台」のことなのだ。
虚無の、無垢の、まだ誰も知らぬ生の只中に立つ、きわめて実存的な宣言。
それから目をそらし、身を避け続ける者は、「屠殺を待つ家畜」になるのだろう。

――『ナレノハテ』。
コンテンポラリーダンスのみならず、現代演劇の在り方へ投じられた苛烈な「問い」。
こうした自己言及性は、現代ではうざったく思われがちだが、それが説教臭くなく、ナルシシズムにも陥ることなく成立しているのは、徹底的な「自嘲」の力だったように思われる。
演者は以下三名、目黑大路(作・演出・振付)、佐々木治己(テクスト)、中西レモン(振付)。
その身体表象には、土方巽が熾した舞踏の、消えやらぬ熱がある。
(演者の目黑氏と佐々木氏は、土方巽が遺したアスベスト館でダンスと演出を行っていた)
本作が上演された『踊りに行くぜ!!Ⅱvol.5』では、計3つのコンテンポラリーダンス作品が上演されたのだが、本作自体が舞台人としての自己批判であるため、観衆は敷衍的にその他の作品にも「問い」を投影してしまう。
踊ること、演じることに無自覚・無批判な、甘い「自己表現」と受け取られないためにも、演者はこの「問い」を常に心の隅に置いておく必要があるのかもしれない。
最後に、本作のテクストを記した佐々木治己氏が、『エステティーク』創刊号に寄せた文章を抜粋する。
本作の根底と結託した言葉だと思っている。

「演劇にとって美とは、問いである。そしてその問いは、自身がこうであると思っていたものに対して向けられる、自らが揺れ動かされてしまうような、ある一瞬間を経験してしまうような問いである。答えがあらかじめ浮かびうるような問いではなく、解決不可能な問いなのである。それこそが美である」

追記 2015/06/08
踊りに行くぜ!! Ⅱ [セカンド] vol.5の報告書に当記事が掲載されました。

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