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映画『シングルマン』 トム・フォードの美学

2010年に公開された、トム・フォード初監督映画『シングルマン』を、あらためて観賞した。
何度観ても、ため息しか出ない。
始まりから終わりまで、爪先から頭まで、スクリーンの端から端まで、完璧にスタイリングされている。
近年様々な映画で注目を集めるコリン・ファースは、本作でヴェネチア国際映画祭・最優秀主演男優賞を受賞した。
個人的にも生涯ベスト10に入っている作品なのだが、評価を流し読みすると「ゲイ映画」だの「ストーリーがない」だのといった理由でけなされていることに目がついた。
アーカイブしておきたい作品でもあるので、これを機に『シングルマン』について少し書いてみたい。
トム・フォードの美学と、その真価も浮かび上がってくるだろう。

年を取るということは、過去に生きるということではないか、と最近思うようになった。
楽しかった日々、美しい旅の思い出、秘密の遊び、棘のような悔恨……様々な思い出が、ふとしたときに頭をよぎる。
心に深く刻まれた記憶であるがゆえに、それらはいずれも鮮やかに色づいて思い出される。記憶が鮮やかであればあるほど、過去が美しければ美しいほど、「今」は色あせて見えるものだ。年を重ねるにつれて、どんどん過去が積み重なり、その中で「今」は埋もれていく。過酷な現実から目を背け、過去の輝きにすがる。自分が幼い頃、なぜ大人はこうもつまらなそうに生きているのか不思議だったが、その理由が今ならわかる。彼らは過去に生きていたのだ。

その日はジョージにとって特別な一日だった。16年間共に暮らしたパートナーが、交通事故で亡くなってから8ヵ月。「愛する者がいない人生に意味はあるのか?」日に日に深くなる悲しみを自らの手で終わらせようと決意したのだ。
(出典:シングルマン コレクターズ・エディション [DVD])

コリン・ファース演じる主人公ジョージは、過去に生きる男である。あまりにも過去を愛していたから、彼は未来に生きることをやめた。自殺を決意したのである。
映画の舞台となっている1960年代のアメリカは、まだゲイに対する風当たりが強く、強い差別と偏見の目にさらされていた。最愛の人を失ったにもかかわらず、しかも16年間も一緒に暮らしていたにもかかわらず、ジョージは彼の葬儀に出向くことすらかなわない。遺体という彼の死の確かな証しを見ぬまま、その「不在」ばかりが降り積もる。彼との二人の余生を過ごす場所として買ったであろう真新しい邸宅も、独りきりで住むには広すぎる。静かすぎる。テラスで交わしたキスや、中庭で犬と戯れる彼の姿が、鮮やかに思い出される。
「夢」とは願望の充足であるという精神分析学者フロイトの理論をなぞるかのように、ジョージは愛する人の事故現場を夢に見る。雪の中、横転した車から投げ出されている彼の死体に寄り添い、別れの印として、その唇にそっとくちづける。佳夢か迷夢か、はたまた悪夢か。目を覚ましたジョージの、死を決意した男の、最後の1日がはじまる。

監督のトム・フォードの経歴については、あらためて語るまでもないだろう。破産寸前だったグッチを、不死鳥のごとく蘇らせた天才デザイナーである(このブログで天才という形容詞を冠したのは、シルヴィ・ギエムに次いで二人目だ)。2014年には結婚を発表している。彼は20代の頃に、英国人作家クリストファー・イシャーウッドの原作に触れ、時を経て自身の記念すべき初監督映画に選んだ。

それにしても、スクリーンに漲る緊張感は尋常ではない。トム・フォードが撮った映画であれば、美を期待するのはあたりまえだが、すべてのカットに強烈なエロスが立ち込めている。彼の完全性への希求は、コンマ一秒の気の緩みさえ許さない。「雰囲気だけ」といった批判を目にしたが、それこそもっと内容と照らし合わせて玩味するべき点だ。主人公の、一寸の隙すらない服装も、定規で計ったかのように整頓された机上も、死を前にした、日常の儀式化なのである。以前の記事で、日常を儀式化した藝術「茶道」を例にとり、日本文化のコアには「死の受諾」があると述べたが、まさに主人公は死を受諾することによって、ありふれた日常の一コマ一コマを壮麗化し、愛でていく。画面に立ち込める「エロス」の源泉は、目前に横たわる「死(タナトス)」の反映だったのである。

今日が最後の日であると知っていた主人公は、いつもとは違う行動をとりはじめる。何度同じことを言ってもミスをするメイドに、「ありがとう 君は最高だ」と感謝を述べる、事務の女性のヘアスタイルや笑顔をほめる、香水のかすかな香りに気づく、見知らぬ女性が連れていた犬を抱き寄せてその香りを味わう。躍動する肉体が、はじける生命が、彼の目に飛び込んでくる。死を前にして、主人公ははじめて、かけがえのない「今」を見つめ、この瞬間を味わい、世界に向かって心をひらくのだ。このとき、主人公と世界とのあいだに、交流が生まれる。色あせた、モノクロームに近い画面の色が、文字通り「色づいて」くる。主人公の心の「ときめき」が、直接的な色彩として画面をいろどる。
大学の英文学教授である主人公は、授業でハクスリー著『幾夏を過ぎて』を取り上げ、生徒に授業との関連性を問う。ある生徒が次のように発言して教室を笑わせる。

無関係です。金持ちの男が恋をして、年の差に悩み
若者を恋敵だと――

主人公は、無言のまま別の生徒を指す。これは、この映画を表層的に解して茶化す者たちへの、メタ的な批判であろう。別の生徒からの質問で、主人公は、マイノリティーたちの問題について自らの信条を熱く語りだす。「恐怖こそ真の敵だ。恐怖は世界を支配する。社会を操作する便利な道具だ」と。これは、主人公の最後の授業なのだ。

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