【対談】押井守×最上和子『身体×義体の行方』前編

対談

AIやロボティクス、バイオテクノロジーなど、テクノロジーが驚異的発展を遂げる中、あらためて人間の存在とその立ち位置が問われている。今回は、その作品の中でテクノロジーの未来を予言し、人間の実存に深く切り込んできた映画監督・押井守と、その実姉であり「原初舞踏」を提唱する舞踏家・最上和子の対談が実現した。
人間の脳以外の器官を機械化(サイボーグ化)した「義体」を描いた押井守監督、自らの内に沈潜し「身体」の隠秘的側面を探求する最上氏。両氏が紡ぎだす21世紀の「身体論」(全3編)。

前編【知性と「身体」は反作用する】
中編【人間とは「了解」する形式】
後編【「死者」とワルツを踊る】
前編【知性と「身体」は反作用する

三浦和広(司会進行):今回は「身体」をテーマにお話をお伺いします。

押井守:見る方はそれなりに興味があった。バレエとか、学生の時に、土方さんの「四季のための二十七晩」あれは結構衝撃だよね。自分の実写映画に出ていた女の子がね、土方さんの弟子になってたんだけど、想像していたものと全然違って仰天して帰った。それでも、すごい「舞台」を見たって感じはしたけど、すごい「身体」を見たっていう感じではなかった。

最上和子:あの頃はアングラが最盛期だったね。

押井:そう。アングラの一部として了解しちゃった。あのころは実験的なものが全盛期だったので、そういうのを見に行ったっていう印象。だから本当の意味で「身体」に興味をもったのは、50歳過ぎてからかな。

最上:土方さんも意外に、もちろんそれまでのダンスの表現から「身体」ということをすごく言っているのだけど、今私たちが気にしているところまではまだ届いていないんですよね。やっぱり舞台表現というか芸能というか、アングラ演劇と同じような感じで、あの頃はまだ舞台表現というのが今よりは生きていたというか、今ってすごく虚ろじゃないですか、まだ舞台が信じられていた時代だったのかな。だからまだ「身体」というところまで降りていない。

押井:「舞踏」っていうのは表現形式が先にあって、「身体」っていう考え方とはまたちがうね。

最上:「身体」という考え方は結構新しいんですよね。私が若い頃は「身体」ということは、まだ誰も言っていなかった。それ自体が問題になって来たのは比較的最近の話。今でも「暗黒舞踏」を引き継いでやっている人は相変わらず「暗黒舞踏」で、意外に「身体」っていうところまで届いていなかったりします。大野先生の舞踏はもうちょっと「身体」に届いている感じがある。

押井:今でもそれは変わらないよね。あくまでもそれは考え方であって。金粉ショー? みたいのもね。一種の公演なんですよね、お姉ちゃんがね金粉塗りたくって駅前でおどっているっていうのはね、不思議な光景だけどね、インパクトをみせたいんだろうけど、あんまり「身体」って感じはない。アングラエログロみたいに、特に70年代は全盛期だったからね。

自分の映画出てた子も同じ大学なんだけど、全身血まみれで本当に仰天しちゃった。自分が映画撮っていながら、自分が顔しか見ていなかった、すごい巨乳だったんですよ。顔でしか選んでいなかった。当時は学生の実写映画だったから、「身体」なんて観点はなかった。ペルソナだけっていうかね。土方さんの踊っている身体よりもね、彼女の踊っている身体にびっくりしちゃった。攻撃的だったというか。

最上:土方さんの演出が攻撃的だったのもあるよね。

押井:人間の身体がむき出しになっているっていうのに仰天しちゃったんだよね。学生ですからね。

最上:それまでのモダンダンスっていう西洋向けのダンスとはあまりにもちがうからね。

押井:様式とかに守られていないっていうかね。抽象がすっ飛んじゃったっていうかね。逆の意味で抽象っていうかね。生だけじゃないっていうかね。だから芝居もみたし、いろいろあるけど。それが最初の体験。どうしても映画をやっているとね、どうしても頭(思考)が先に行っちゃうんですよ。

最上:昔の自主映画の監督さんはそうだったもんね。今の若い人は違うのかな。

三浦:西洋的なダンスは動き一つ一つに意味を与えていきますが、「舞踏」は意味をどんどん排除していくイメージがあります。顔も白塗りで、むき出しの何かがある。人形とかの素体と似ているなと思っています。

押井:以前、人形をテーマにした映画を撮ったことがあるんだけど、あの時は、人間はなぜ人の形を作りたがるんだろう、なぜ「身体」を外部の形として欲しがるのだろう、というテーマから映画を作ったんだけど、結局そういうことじゃないんだよね。やってみたらわかる。自分の「身体」として実現しないものは違うんだよ。この仕事をしているからバイアスがかかるけど、表現っていう形にこだわっているからいけない。それだと、どうしても「身体」ということにたどり着けない。表現していてはダメなんだよね。

最上:まずは家を出ることね。あなたは本をいっぱい読んでいる頭のいい人。でも、知性と「身体」はね、矛盾するものでもないと思う。どうしても知性というものが強い人はね、「身体」を放り出すことによって前進する。知性と「身体」は反作用する。

身体を置いていかないと、知性は前に進みにくいじゃないですか。身体を置いていくことによって、すごく知性が発展したのは事実だけれど、それで空虚になっていったから、いまあらためて「身体」を気にしはじめている。「身体」は新しい認識世界かもしれない。

押井:サイボーグや機械化という観点から言うと、義体化とか機械化した結果、最後に脳が残るのと、機械化した身体に脳を載せるということは、別なベクトル。

最上:「身体」を喪失してきたから、回復したいっていう欲望がそういう方向に向かっている。

押井:最初のサイボーグというのは、人体改造にとどまっていた。たとえば義眼をいれるとか。でも、そこから人間の能力をこえたテクノロジーを載せる「義体」になると、今度は人形に脳を載せる。これは完成されたもので、それ以上そこから先に行けない。ネットの中に人格が移植する。

捨て去ろうとしても身体というのは付いてくる。切れないんですよ。身体にとどまっていくというよりは開いていく。広がっていく。姉(最上和子)がやっていることは前進するというよりは、むしろ沈んでいく。開いていくということなのかな。踊ると言うと、スポーツだろうが舞踏だろうが、能動的で攻撃的なものをイメージするけど、姉がやっていることは逆なのかなと。受動的な感じがする。広げていくというか、沈んでいくというか。

最上:今までの文化って人間の外側にあるものをいじくって展開して来たじゃないですか。外側に展開していくのではなくて、内側に入っていき、その中を深めたり広めたりすることによって、周りの世界を変えていく。今までのアプローチとは違うんですよね。

押井:表現ではないんじゃないのかと思う。どこかしら表現でありたいという欲求はあるんだろうけどね。

最上:土方さん大野さんまでって、これは表現にならないんじゃないか、というところまで行っていないんですよね。あの時代だから、人前で芸能をしたり、舞台をしたり、表現をして自己実現をしていくっていうことに、疑いみたいなものを全く感じないんですよ。それは疑わないで済んだんだなと思います。

三浦:以前最上さんが仰っていた、「表現はおとずれるもの」っていうのがまさにそういうことなのかなと。

最上:能動性っていう言葉の使い方なんだけど、アクションをかけていくっていうことからすると、私がやっていることは確かに能動的ではない。最初に受けにまわる。「退(ひ)きの身体」と呼んでるんだけど、退(しりぞ)くことによって「身体」が立ち上がると、そこで初めてみえた世界こそが世界であって、その前の段階はわりと人間のご都合的な世界というか、引いた時に、別の世界が立ち上がる、その世界を相手にしていく。一度退いてから、はじめて能動性というものが働くんです。

三浦:退くっていう考えはあまりないですよね。

最上:西洋欧米文化は、退くという考えはあまりない。日本の芸能を遡っていくと「退く」なんですよね。

三浦:能などもそうですよね。押井監督は武道(空手)をはじめられてから、「身体」の面で変わったことはありますか?

押井:ありますね。最初はなじむまで苦痛、筋肉痛との戦いで、これが半年くらい続いた。準備運動だけで死にそう。「身体」を使うってことをまったくしなかったんで(笑) 高校性までは柔道やってたんだけど身体が思い出すまで大変だった。

そこからは、汗をかいて、ドーパミンが出る気持ち良さにハマって行って、稽古のあとの酒がめちゃくちゃ美味くて、こんな気持ちいいことなぜやっていなかったんだろうと。結果としてやりすぎて、身体壊しちゃったんだけど。姉にも怒られたし、先生にも怒られたからね。人間って筋肉量も身体の作りも一人ずつ違うからね、それとしっかり向き合わないといけない。

武道は身体を緊張させる快感なんですよね。間合いを身体でつかむというか、ものすごく研ぎ澄まして、どこまで踏み込むといいのかとか、目も特定のところは絶対見ない。雰囲気をみているだけで。どちらが先に踏み込めるのかという世界だから、それが気持ちいいのだけど、それと姉が言う「身体」はまた微妙に違うんだよね。本当は身体を緊張させることよりも、リラックスさせることがはるかに大事。

今でも緊張の気持ち良さに流れているんだけどね。関節を引き締めるとか、脇を固めて立つとか、肩甲骨も引き締めると、普段届かないところに届くんですよ。気持ちいいんですよ。俺はなんてかっこいいんだろうモードにはいるんだけど、身体に会うというのは、肉体からしか会えないから、別の危険もありますよね。日常の「身体」とが別々になってしまう。タバコ吸ったり、酒飲んだり、そんな人間になってしまう。日常生活と、緊張モードの気持ち良さが地続きになるのが難しい。自分の身体が別物になるという快感におぼれてしまう。実際は歩いていると足が痛いな、となってしまうしね。姉は歩いていてドーパミンがでるといいますが、自分は歩くこと自体がものすごく快感になるという体験はほとんどない。日常的な快感はほとんどないですね。

三浦:「身体」のことが分かり始めることによって、表現は変わりましたか?

押井:見るものが変わるかな。筋肉がすごいなとかではなくて、この人すごいなって。身体の持っている雰囲気に目がいってしまう。一番思うのは、アニメって紙の上に表現するから身体とは一番遠いところにあるんだけど、アニメーターはほとんど身体がダメで、6~7割が痔をもってる。ほかにも足腰がダメだったり、肝臓が肥大していてとかね。

でもアニメーターってものすごく「身体性」が求められる。絵ってね、目玉と指だけで描いているんじゃない。自分の脳と腕を直結させていくっていう、ものすごく身体的な作業工程が必要。上手い人間ほど、体力的にすぐれていますしね。イラストレータでもアニメーターでも、体力がないと絵なんて描けないですよ。うちのすごい上手い人がいるけどね。筋トレが趣味だったり、ゲーセンの腕相撲へし折ったりとかね。音楽家とかはわかりやすいけどね。絵を描くってものすごく「身体的」な行為だよね。言葉とは違う世界ですよね。発見といえば発見かな。実写やっている時に思うんだけど、アニメをやっていると映画として硬いな、ものすごくゴツゴツしている、身体が馴染んでないなというのが分かってくる。最近は、身体が馴染んできた。

最上:それは(映画の)本数を取れば馴染んでくるの?

押井:それはちょっとちがう。柔らかい映画と硬い映画って、たとえばデッヴィットリンチとかはめちゃくちゃ柔らかい。リドリースコットはちょっと硬いかな。つまり、カットで決めてやるぞっていうのがある、そうするとどんどん硬くなる。柔らかい映画って、時間が流れているっていうか。

最上:そういうと、わかりやすいね。

押井:映画って「時間」を写すものだからね。その時間を表現するということが分かったのがここ10年くらい。アニメでいうとスカイクロラの頃から、ようやくそのことがわかった。時間は映画の中でしか表現できないからね。ほかのことは全部オマケなんですよ。本質的ではない。書籍の代わりだったり演劇の代わりだったりできるから。映画にしかできないことって映画の中に時間を成立させることなんだよね。それに乗るっていうか、撮影している現場自体で表現するというか。それが、映画が身体に馴染んできたということかな。それまではカットで決めてやるっていう、ガチガチの映画を作っていた。アニメでも同じことがある。アニメってカットで作るからね。柔らかい映画って、時間が身体に馴染むものっていうか。年を取らないとわからないけどね。若いと硬いからね。

最上:映画を撮る人がそういうことを言ってくると助かる。映像を好きな人って「身体」は嫌いなんだと思う。自由度が全然違うから。「身体」の自由度って「外」に展開する自由じゃなくて、「中」に入っていく自由度。それって客観的にはすごく分かりづらいじゃないですか。

押井:アニメなんかはね、現実の人間のリズムとは全然違う人間の動きを表現する。独特のリズムを刻んでる。超人的な動きとかね。そういうのって、若ければ若いほど憧れるものですよ。若いほど世界最強の身体に憧れる。それと逆というか、その憧れとか気持ち良さにいかないというか、世界最強の身体にいかないというか。いかに自分の身体を見ているかということだよね、ちゃんと自分が思った通りに動けるかとか、歩けるかっていうこと。強さとかかっこよさに憧れて入っていって、自分の身体と向き合い始めていくと、自分の身体の固有性と向き合わざるをえない。

筋肉で勝つわけではなくて、身体全体で強者に立ち向かうというか。じゃないと若い人に勝てないですもんね。筋力だけじゃね。そういうのは若い時は分からないからね。だからうちの姉は、筋トレをするのはダメだという。身体能力の高い人間ほど、その成功体験から離れられないんですよね。ダメな人間ほど、気がつきやすいというか。病気になった時に気がついたんですよ。自分の身体に向き合うということに。筋肉とか「外」ではなくて、「内」に入っていく。
>>中編【人間とは「了解」する形式】

◆最上和子最新情報
ドーム映像作品『HIRUKO』公式サイト:http://fulldome-hiruko.com/
公式Twitter:@FullDomeHIRUKO
日時:2019年5月9日(木)18:00〜 / 5月14日(火)18:00〜 / 5月16日(木)18:00〜
場所:ギャラクシティ 2Fプラネタリウム(東京都足立区) >>MAP
料金:2,000円 ※小学生以下無料
>>チケットの申し込みはこちらから(Peatix)