【対談】押井守×最上和子『身体×義体の行方』中編

対談

前編【知性と「身体」は反作用する】
中編【人間とは「了解」する形式】
後編【「死者」とワルツを踊る】

中編【人間とは「了解」する形式】

最上:内に入るという思想は前からあったよね。最近だとスピリチュアルも増えてきた。他にも世界中の先住民族の中に入っていく人とかさ。昔は中沢新一さんがチベットに行って身体理論を学んだりするんだけど。私は、その前からあった「身体」の、「内に入る」を上書きしていかないといけないと思っているんです。インドに行って瞑想して来たという人に会うことがあるのですが、全然人間として深くなかったりするんですよ。瞑想して何をして来たのっていうような人。普通に暮らしているなかで、内部というものを手にしていくというか、取り込んでいくというようなことをしないといけない。資本主義のなかで、いかに手応えを作っていくかということがしたい。それって世界の果てに行かなくても充分わかる。少し「ずらす」だけでできると思うんですよね。

押井:分かりやすいからね。今世の中に充満している情報っていうのは、若い人に向けられているものだからね。山に登って、下りて来たら超人になったとかね。分かりやすいですよね。すごい犠牲をはらったから、報われるべきだっていう今の若い人が信じていることだよね。

三浦:資本主義的な、対価としての報酬が染みついているのかもしれないですね。

押井:スカイダイビングみたいなもんだよね、これやったら世界が違って見えますとかいうよね。あとはマッサージみたいなもので、その時は気持ちいいけど持続しないんですよね。
どんな対価を払っても手に入らないものだってあるし、どんな投資をしても回収できないこともある。意識が日常にあるということが一番大事、でもそれって人に伝えづらいことなんですよね。
僕は超人を描いてきて、これで飯を食ってきたんだけど、等身大の人間を描いてきたことがないんだもの。常人でないものに対する憧れだよね。その方が需要が高いんだから。超人に憧れるのは構わないんですけど、問題なのはやっぱり中身ですよ。自分の枠を超えたチカラって、どういうことなのか言葉では説明できないんですよ、感じていくしかない。空手とかも、内側の問題は言葉では説明できない。

三浦:今までのご自身の表現を否定しているようにも聞こえます。

押井:自分の表現を否定するわけではないんだけどね、放棄する気は全くないんですよ。好きですしね。でも、そういう表現もあるっていうことが言いたいんだよね。どんなすごい小説を書いた作家だって、最後には自分に戻ってくる。自分の人生の中で、自分の表現を回収するのはすごく難しい。それができる人ってほとんどいないんですよね。

最上:文化文明が「外」に展開して来たっていることは否定のしようがない。今ある表現も、面白いものがいっぱいあるからそれを否定するわけではない。自分の人生って生まれていつか死んでいくわけだけど、このサイクルの中で、どう表現や人生を回収していけるのかということに昔から興味があった。
どんなにすごい大作を描いたって、その人が死ぬ時にどんな内的な世界だったのか、死んだ後はわからない。内的世界は外からは見えないから、その人自身が何を想い死んでいったかわからない。私は惨めに死のうが、孤独に死のうがどうでもいいのだけれど、内面世界と自分の表現してきた今までの世界が、どう繋がってきたのか気になっているのね。

押井:生きることは、素敵に生きたり、色々対処ができるけど、死ぬっていうことはどうやっても対処できないじゃないですか。どうやってうまく死んでいくか。

最上:自分の内面と、自分の表現がつながっていないものに自分は違和感があった。自分の内面世界とつながっていなくても、それが表現として成り立つということがどうしても違和感があったから、私は表現をやめたんだけど。表現を見る時にそれを気にする人はいないからさ。

押井:生に対する執着があるんですよね。食べるシーンを必ず描くし、同じように逆のことができるかっていうとすごく難しいんですよ。死ぬっていうことを表現するとすごく単調なんですよ。映画っていうのはお約束とか、記号で成立するんだけど、役者の肉体を通してどう死を表現するんだろうっていう。死って簡単に表現できるんだけど、本物の死はあまり見たことない。人間として、そっちに行きづらいんだろうね。見る側も生の表現が好きだし。

三浦:本来「死」は語れないものですよね。

押井:死ぬ気でやるとか、死ぬほどとかいうけどさ、生死をわかたないドラマなんて見たことがないし。基本的には死に向き合う葛藤じゃないですか。それは生の側の表現。実は生と死は同じものだと思うんだけど、生と死しかないからね。この身体をもって、現実をどう生き抜くのか。

三浦:これからの世界をどう生きるのか、どこに向かうのか、AIとか人工知能なども含めて、かなり予言的に監督も描いて来ていると思います。

押井:攻殻をやっていたときって、あれを作っていた時ってね、インターネットなんてなかったし、全然知らなかったし、それを外部に見えるようにするにはケーブルにするしかなかった。人間の視覚をこえた世界は、今でも好きだし、今でもゲームやっているしね。キャラクターが自分に投影されるゲームが大好き。普段とはちがう「身体」と動き回るというのが好き。ゲームやっていてもただ走り回っているだけで楽しいの、でもバーチャルは全然好きじゃない。あれは憑依するものがないから。

最上:前に対談した時に、ゲームと舞踏が似ているという話しになってね。憑依するとか、この現実じゃない現実を生きられるということだと思うんですよ。舞踏も、ある程度になるとこの現実じゃない現実にふっと移動してしまうということがあって、それが気持ちいいからやっている。見るからに視覚的に変わるとかっていう変わり方じゃないんだけど、ある状態になるとこの世界とは全然違う別の世界の中に自分がいる状態になる。そこで動くことによって、この味気ない現実の中に自分の内的世界を押し込むことの快感が生まれるんです。たった10分であっても生まれ変われるということ。内的時間も本来、みんなそうなんだと思うけど、いまは本来の身体表現ということではなくて、いかに筋肉を使うかとか、いかに動くかが重要になっているけど、もともと古代人がやっていた踊りって、私がやっていたような踊りなんだろうと思います。私も古代人のように踊れるわけではないんだけど、ちょっとできると、生きることが楽になるし、自分が主人公になれるわけですよね。この世界で生きさせられてるんじゃなくて、自分が生きているっていう状態になれるんですよね。この体験がいかに貴重かと思っているんだけれど、なかなか伝わらないんですよね。

三浦:イニシエーションとして「身体」の操作を教えている。これはすごく魔術的。古代の魔術師的な観点で「身体」をやられているっていうのは、これはいないと思う。

最上:いないんですよ。いわゆる舞踏の人にもそういう人はいない。土方さんたちからも、もちろん得るものはあったんだけど、同じかというと全然違う。今自分のやっていることに当てはまる的確な言葉がないから、「舞踏」と呼んでいるんだけど。

押井:シャーマンだね。

三浦:最上さんの舞踏の稽古の中に、コップをとる所作に、何十分もかけて行うものがありますが、変性意識を生じさせていると思うのですけれど、そういうものはご自身の試行錯誤の中で見出したものですか。

最上:舞踏ってスローに動くっていうイメージがあるじゃないですか、あれって暗黒舞踏なんかでは様式ですよね。わたしも舞踏をはじめたころはなんで遅く動くんだろうとかいろいろ思ったんですけど、一緒に稽古場を作って一緒にやるようになって、いろんな稽古をやったんだけど、たとえばコップとるような日常的な所作に応用すると、それをやっている人の状態が目に見えて変わるというのがわかった。
そういう経験を積み重ねていくと、単純なんだけどすごく効果があると思ってね。はじめはどのような稽古をすればいいのかわからなかったしね。ゆっくり動くということは、この肌理が面にきざまれていくので、ものの見え方も時間意識もかわるしね。

押井:むずかしいよね。

三浦:現代の人は速くやることをやり続けますよね。

押井:型もね、速くやることもあるんですよ。あれはある程度、練習すればできるんですけどね。ゆっくりやると途端に破綻して行く。

最上:バランスが取れなくなるのよね。

押井:どこからどうやったらいいんだ、とね。足も手もばらばらになっちゃう。
ゆっくりやるとね、絶対どこか破綻するんですよ。

最上:変性意識に入る方法はいろいろあって、ネイティブアメリカンはキノコをつかったりするけどね。キノコほど劇的な効果はないけど、劇的な効果は日常と相容れないじゃないですか。着実にものにするにはそんな劇的なものは必要ないと思う。ゆっくりやるというのは誰でもできる。それを積み重ねて行くと、空気が濃くなる。周りの空間って普通何もないんだけど、ゆっくりやると空気が濃くなる。で、ここを埋めるということに快感を覚えてしまう。そういうことをするうちに意識が変容する。普通は、バイクとか、速く動くことに快感を覚えるんだけど、あれはバイクから降りたらただの普通の人になるでしょ。でも意識の変容を起こすと、それは一生持続する。ゆっくりやるって、お年寄りでも誰でもできるから。積み重ねていけるし。

押井:前に行けば、必ずいつかは死ぬことになるし。ドラッグは劇的な効果があると思うけど、人間の身体がついていかないし。これはいつかは破綻する形式なんですよ。自分の身ひとつでできること、これ以上に強いことはない。身体をゆっくり動かすことって、すごく疲れるんですよ。空手の型って実はものすごく疲れるんですよ。で、ヨレヨレになった時に、すごくいい型になるんですよ。余計な力がはいらない、自分がなんてかっこいいんっだていう余裕すらなくなった時ね。自分の身ひとつですよね。

三浦:その話を聞いて、なぜひとは人をかたどるのか、というイノセンスのテーマにも繋がってくると思います。自分がかっこいいっていうのは自分を客観視することだと思うのですが、それが人間の特権でもあり宿痾でもある。その宿痾を乗り越えたとき、客観性から完全な主観性にシフトしたとき変容が起こる。完全な「身体」をもつ対象として、お二人とも「動物」を挙げていらっしゃいますよね。

最上:人形をつくるって簡単にいうと自己認識の欲望ですよね?

押井:私はね、人間というのは「了解」する形式だと思うのね、もっと直截的なもの、どっかで「納得」したいというね。

最上:人間が動物じゃなくなった時、「自分て何」というところなった時に、人形をつくるという発想がはじまる。

押井:凝った人形をつくりだしたのって、理想を追求したいっていうのがあったんだと思うけど、最初はただ「了解」したいっていうことだと思うんだよね。子供が人形を抱くっていうのは、子供をもつ訓練というけどあれは違っていて、あれは子供そのものなんだよね。
思考形式自体が呪われているんですけど、その際たるものが人形というもの。

最上:ハンスベルメールは新しい欲望の形というか、素朴な了解したいっていう欲望からは抜け出ているよね。

押井:人間を幾何学にしたものですね。球体で全部作られているっていう。変性した欲望。

最上:解体して組み立て直したというね。

押井:どんどん外部化することで、どんどん抽象が進めばね、それ自体が欲望を喚起するというね。人間の欲望はもっとシンプルなもので、わかりやすいもの。大人も子供も全部一緒っていうね。人間の欲望が複雑になっていった原因というのは、自分自身を外部化したということ。もしかしたら殺人衝動というものもあるのかもしれない。人間を殺すことはものすごくタブー。人形っていうのは作ったら壊したくなるものじゃないですか。もしかしたら、そういう欲望もあるのかもしれない。

最上:昔は、生贄とかもあったものね。

押井:あれを土偶にかえたりとかね。文明が進歩してそうなったっていうのは違うと思う。違う欲望ですよね。人間の中身を使ったことで何かを満足させたんですよね。
人間の身体ってわりと効率が悪いんですよね。2〜3年で分解しちゃうんだから。権力欲としては、2000人の奴隷より、2000体の人形を作らせる方がいいんだろうね。

最上:仏像って特別好きじゃなくて、踊りをそれなりにやっていると、仏像って全然面白くないなって。なんで外に作るのっていうのがある。なんで中に作らないで、外に作ってしまうのか。外側に形に出すことによって、「了解」していきたいのだろうけど。ただ、問題は自己生産していくというか、もともとあった中身の方を忘れて、外側に作ったものがどんどん増殖していって空っぽになっちゃった。それが力のあるものだったら、人間にとって意味のあるものなんだろうけど。

押井:人間が自分自身を外化することによってね。外化したから人形を作りはじめるっていう、そこから先は自動的にサイクルが進むから。そうやって今の世界が作り出されている。始原までたどるっていうのは容易ではない。

最上:始原まで辿らなくても、やっていけるわけじゃない? どうしてそっちの方向に進むのかな。

押井:昔から思っていたけど、姉(最上)は古代人なんですよ。どう考えても現代人じゃない(笑)。そういう人間もある程度は必要なんですよ。どちらかに偏ってしまうと人間としては脆弱。家畜と同じで、多様性を入れていかないと脆弱になってくる。古代人は必要なんですよ。古代人が持っている独特の感覚とかは、言葉にしづらくて分かりづらくても、それを求めたいという衝動が、人間が身体を持っている限りある。どんなに遠くに弾き飛ばしたとしても、必ずついてくる。これを器用に生産できた人はいない。どんなに器用で知的な人でも自分の身体の問題を解決できた人はいない。義体を必要とするわけだ。誰かとコミュニケーションするためにはね。自分が存在するとしたら、なぜ女の身体を選ぶのか。あえてさ、自分がどれを選べるとしても、人間は人間の身体を選ぶんじゃないかな。

>>後編【「死者」とワルツを踊る】

◆最上和子最新情報
ドーム映像作品『HIRUKO』公式サイト:http://fulldome-hiruko.com/
公式Twitter:@FullDomeHIRUKO
日時:2019年5月9日(木)18:00〜 / 5月14日(火)18:00〜 / 5月16日(木)18:00〜
場所:ギャラクシティ 2Fプラネタリウム(東京都足立区) >>MAP
料金:2,000円 ※小学生以下無料
>>チケットの申し込みはこちらから(Peatix)