【対談】押井守×最上和子『身体×義体の行方』後編

対談

前編【知性と「身体」は反作用する】
中編【人間とは「了解」する形式】
後編【「死者」とワルツを踊る】

後編【「死者」とワルツを踊る】

三浦:今の時代だと、将来的にはサイボーグがリアルになっていて、全ての臓器が再現可能になり、そうなった時の身体性はどうなるのでしょうか。

押井:当人たちの意識は変わらないとおもう。今ではスマホは身体の一部じゃないですか。手のひらにあるだけで、身体の一部になっている。これがなくなっただけで、すごい欠損感。自分の身体の一部なんですよ。なくなるとすごいストレス。当人の意識の問題で、サイボーグになっても特別な意識なんてなんにもないとおもう。人間の身体なんてすでに環境だから、より改善したいとか改良したいとかバージョンアップしたいとか、そうなってくる。

最上:私は、まったくそういう欲望ないね。

押井:ほぼみんなバージョンアップ人間ですよ。新しいバージョンがあってね。頭の中身は置いといて、目に見えるバージョンアップをしたいわけですよ。だからサイボーグになったって今と何も違わない。今だって、調子がわるければ医者に行くし、みんなメンテナンスしているじゃないですか。

最上:人が思うことは変わらないのかもしれないね。

押井:ある種のノスタルジア、べつにそれでもいいじゃないとなるとこうなります。

最上:よくコンピューターと人間が将棋して勝ったとか言っているけどなんの興味もない。だって情報処理能力はコンピューターの方が上じゃない。当たり前なのに何が面白いのかって思う。動きが人間にそっくりになったとかって興味がない。

押井:人間は特権意識があるからね。西洋的なんだと思いますよ。東洋的な感覚で言ったら機械だって人間だって一緒だからね。からくり人形とか、人形は魂がなくてあたりまえだからね。愛着がわくから、なにか祟りがあるんじゃないかって思うんだよね。

最上:ぬいぐるみとか人間の形をしたものって、執着があるからこわくて捨てられないんですよね。

押井:うちは犬や猫の置物は山ほどあるけど、人形はひとつもない。人形は側に置かない主義。こわいから。

最上:不思議なんだけど、私は人形に全く興味がない。だけど、今度の公演に人形を使うんですよ。人形って言ってもいわゆる人形じゃなくて、今度の公演のテーマが「死者と踊る」なんだけど、その死者っていうものをどうするのか。たとえば舞踏でよくやるんだけど、白い着物をきた何かを死者に見立てて、踊ってみたりとかって真っ先に思いついてよくやるんだけど、なんでかしらないけど気持ちが変わってきて、自分で作ろうってなったんですよ。だけど、自分で作れる範囲だから、いわゆる人形みたいな感じですけど、これを死者に見立てるっていうものを作っています。ほんとは呪物を作りたいんだけど、自分の能力ではそこまでいけないし、それをもって死者とワルツを踊るとかを昔からやりたかった。自分の中の大きなテーマ。人形に興味がないくせに、死者の人形と踊りたかった。「身体」をやっているから、ものがなくてもいいというわけではなくて、表現として成り立たせるために呪物がほしいなっていうことはある。西洋の美術って、呪物っていう感じが全然しないのね。自分の表現には呪物が欲しいっていうのがある。だから、どんなものもしっくりこなくて、しょうがなく自分で作っている。

押井:呪いのアイテムだね。

最上:呪いって感じではないけど、ものが生きている状態っていうか。

三浦:儀礼の道具ですよね。

最上:昔、衣装と踊ったことがあるけど、あの発想がいまだにつづいているわけ。

押井:あれはよかったけどね。
あれをあえて人形にする意味とかは?

最上:よりバージョンアップっていうか?笑
井桁(裕子)さんのね、あの時は私自身の意識はなかったっていうか、呪物として認識していなかった。

押井:あれはよかったね。表現として見えやすいからね。

最上:表現世界を成り立たせるために、見えるものがほしいっていう。

押井:あれをやりすぎるとね。暗黒舞踏とかと一緒になっていく。「物」を持つのはいいと思うんだけど。

最上:踊りの場合の「物」っていうのは、自分の中の「物」というか……

三浦:たとえば、魔法使いが杖をもっているのは、自分の延長線上っていうことですか?

押井:あれは記号ですよ。アニメなんて記号のかたまりだから、記号は物語をわかりやすくする絶好のものだから。魔力をわかりやすくするために杖をもっている。記号が一人歩きするのが難しい所で、どこまでを記号にするかが重要。

最上:「死者」とワルツを踊るというのは、死者と言っているけど、それを「分身」として見た場合、分身というのは誰でも自分の分身を持っているんですよ。自分を捨てて自分は分身になってきたわけで、自分が捨ててきたものは脅威になってずっと残っている。自分が捨ててきたものが自分を取り囲んでいるっていう意識があって、だから、それを目に見える形にしたい。

押井:それは「死者」であって、「死体」ではないということね。ようやく「死者」と「死体」は違うってことに納得がいった。「死者」ということは、自分の分身であるからね。影とかね。

最上:死者というのは分身であり、幻であり、亡霊であり……

押井:この人は、死って言葉がすきだから、すぐ死って言うからますますわかりづらくなってくるんだよね(笑)。もっと「影」とかっていうとわかりやすいんだけどね。

三浦:古代人にとって「霊」というのはそういう意味で捉えていたと思うんですよね。

最上:「霊」だよね。

押井:死って言うとみんなビビるからね。一般の人にとっては死って怖いからね。姉にとっては普通なんだろうけど。

最上:稽古していたら、怖い死者が現れて踊れなくなった人がいましたね。その時に、死に対してそういう風に思う人がいるんだなって思いました。あまりにも死に親しみすぎていたのかな。

押井:「死者」というのは、悪魔でもなく、穢れでもなく、分身なんだって言えばわかりやすいよね。死と言うとみんな腰が引けちゃうから。

最上:大野さんとか、舞踏をやっている人はみんな「死」と言うよね。

押井:そう。舞踏をやる人はみんな「死者」って言葉をつかうんだけど、普通の人にとってはヤバい言葉なんですよ。古代人にとっては「死」は身近だったんだろうけど。現代社会はいかに死を隔離するか、それにつきるもんね。こんなに死を隔離しちゃってどうすんだろうね。死体だって見れない。本当はみんな死体を見たいんですよね。

三浦:「アンティゴネー召喚」もいってみれば、死体の話ですね。

最上:死者と踊るということを一回やってみたい。服と一緒に踊るっていうのも、中身は入ってないんだけど、白い服と踊るっていうね。なんであれを思ったのかわからないんだけど、でも、自分がやるってなった時になんでだかすぐに浮かんじゃった。踊り始めたのも50歳を過ぎてからだし、それもあるのかもしれない。だからすぐ死者っていうイメージが出てきちゃって、やっていてなんかすごく充足感があるんですよ。死者を抱いて踊ると。

押井:やっぱり踊りの人の性分というか、間違いなく死のリレーに向かう。死者をどう送るかっていう、日常とはちがう自分になっていくんだろうね。

最上:死者っていうことと、「アンティゴネー召喚」っていうのは入り口としては別だったんですよ。私はもともと、ギリシャ悲劇は詳しくなくて、アンティゴネーとオイディプスくらいしか読んでないんですけど、でもアンティゴネーはすごく好きだったんですよ。時の権力に逆らって死者を埋葬するっていう、現実世界の中で自分の命をかけて通して行ったっていうのが多分好きなんですよ。今の時代ってそうゆう気高いものがないじゃないですか。いろんなものがあるのに。そのアンティゴネーの血筋みたいな、人類の歴史みたいなものってずっとどこかに残っていると思うんですよね。女性が、自分の命をかけて、気高いものになる、なろうとすることが自分と重なったんですよね。それと死に対する自分の思いが重なった。アンティゴネーは死者を埋葬して、そのあと自分が死刑になって、自分の死に向かって歩いていく。その二つの死との関わりが興味深い。最上和子が、アンティゴネーという、ほぼ神話的な人物に憑依するというか、固有名詞をもった小さな自分というものを重ね合わせることによって自己実現ができる、死に対する感覚も歴史の中に通ったものになる。
自分が死を思って踊ったところでね、それこそ主義の問題になってしまうので。

再現する時に、自分にとって痛切に思えるものでないと表現にならないしね。舞踏って自分の命とつながっていないといけない。歳をとったことで、神話上の人物と自分を重ね合わせることができた。あと、死者と踊る、という中にいろんなものをぶちこめる。アンティゴネーだったら、自分の兄と踊るってことですもんね。他の人から見たら何でってなるけれど、自分の中だったら全部がまとまる。もともとギリシャ悲劇ってストーリー性の演劇より、舞踏のほうが合っているような気がするんですよね。ものすごく強い世界じゃないじゃないですか。一つの世界観の中に、あらゆるものが詰め込まれていて、日本の感覚とはべつで、垂直的に立ち上がるというか、八百万の神とかもいうけど、私は一つのすごく強いチカラがある方がいいんですよ。砂漠で生きるほうがつらいじゃないですか、生きることが厳しいほど、神への強い信仰が生まれるんだろうと思うんです。炎のように立ち上がる信仰が生まれるんだろうと思います。
そういう垂直的なものが自分の中では矛盾しないんですよ。

三浦:垂直と並行の、中間がギリシャ神話ですね。

押井:自然神には興味ないんじゃない?

最上:一神教か、自然神かっていう二択ではないんですよ。ものの考え方としては、私はアニミズムなんですよ。変性意識に入っている時っていうのは、アニミズムが実現できる世界なんですよ。完全にモノはモノではなくなるし、木は木ではなくなるし、本当に生きてきてしまう感じがするし。

三浦:次回の公演、楽しみにしています。

◆最上和子最新情報
ドーム映像作品『HIRUKO』公式サイト:http://fulldome-hiruko.com/
公式Twitter:@FullDomeHIRUKO
日時:2019年5月9日(木)18:00〜 / 5月14日(火)18:00〜 / 5月16日(木)18:00〜
場所:ギャラクシティ 2Fプラネタリウム(東京都足立区) >>MAP
料金:2,000円 ※小学生以下無料
>>チケットの申し込みはこちらから(Peatix)