舌たらずの、蝶|樋口りの

小説

ぶよぶよした生地から、みずっぽい血のようなトマトソースがあとからあとからしみだしてくる。まるで水死体を食べているようだ。まばらな肉とまだらなトマトと、ベシャメルソースに溺れたおぼろげな生地がねっとり舌を絡めとり、もったりと不快にもつれあう。

オフィーリアの亡骸を食べる王子、というまぼろしが一瞬、脳裏を横切る。
とにかくラザニアは失敗だ。それも惨憺たる失敗。
今日のランチをどうしよう。きっと生地を茹ですぎたのだ。

ともかく落ち着こうと、バスルームに立つ。ふと、鏡をみつめる。そこには、フリーダ・カーロをアメリカン珈琲ほどにうすめて、左頬に蝶のかたちのアザを浮きあがらせた女が立っている。彼はマロリーが「画になる女」だという。おもく豊かすぎる黒髪に引き絞られたちいさな貌(かお)、きつい鼻梁、つよい眉、おおきな黒い瞳。左頬に生まれつきある、蝶が羽根を閉じて休んでいるようなアザをして、蝶子というあだ名を彼がつけた。蝶が休んでいるのに、あなたの頬を打つ男なんていないよ。そう言って笑う。蝶子さんは恵まれた女なんだよ。

――どうしよう、サトルをもてなしたかったのに。

バスルームのちいさな窓の外で、陽の光に金の縫い取りをされた繊細な葉が揺れている。そうだ、もう一度つくればいいのだ。今度は生地を茹でないで。マロリーはちいさな鳩が窮屈な小窓におしこめられた壁時計に眼をやる。約束の一時までまだ時間がある。
けれど。
いきなり気持ちがリノリウムの床へと失墜する。ずっとはりつめていたものが重力に魅せられたシャボン玉のように、ゆらりと降下して、割れた。
ああ。
マロリーの左頬を一筋の涙がつたう。じわりと鱗粉を流された蝶は苦しげな身じろぎで羽根を痙攣させるが、もはや飛び立てない。
なにも泣く事はない。そんなことはわかっている。
窓の外で、金の縫い取りをされた葉がさざめきたつ。木漏れ日が、音のない散弾銃のようにマロリーの頬をみだれ打つ。彼女は涙をレースの袖でぬぐい、ゆっくりとバスルームをでて、再びキッチンに立つ。両手にラザニアの大皿をもち、おもむろに劇的に、ダストボックスに傾ける。トマトソースとベシャメルソースが、競うようになだれをうって走りだす。

―――どしゃり。

にぶい音がして、醜く膨れあがったオフィーリアは王子にその顔をみられる事なく、無事野菜屑の底に、埋葬された。

大柄で、うつむきがち。それでいて匂い立つような、つよく蒼みがかったうなじを無防備にさらしている巨きなユリを、丁寧にいくつか包んでもらうと、サトルは満足して店をでる。うららかな午後だ。さわさわと揺れるユリの束を小脇にかかえて路を急ぐ。約束の一時を二十分ちかくも回っている。
四角いチーズケーキのような生成りがかったクリーム色のマンションの一階をめざし、新緑を深蒸ししたような緑のドアの前に立って呼び鈴を鳴らすと、澄んだ声がかえってくる。今あけるわ。
「ごめんね、蝶子さん。バスがご丁寧にすべての停留所に停まるもんだから」
マロリーは笑ってサトルを招き入れる。一抱えもあるユリの束を抱きしめるように受け取ると、一瞬まぶしそうに眼を細める。
「ありがとう、素敵ね。ところで、ねえ、今日のメインディッシュ‥‥失態しちゃったのよ」
マロリーがかすかに身をよじり、眼をそらして呟くように告白するのを、サトルはどこか楽しげな目つきで眺めている。
「失態しちゃった?」
「ごめんね」
「いいんだよ。何を作ったの?」
「それは‥‥秘密」
「へえ、秘密をこさえて、秘密裏に処理した?」
「ちがうわ」
赤くなるマロリーに、サトルはくつくつと笑いながら、ごめんごめん、いいんだよ、とくりかえす。ユリを食べるわけにもいかないから、ピザでもとろうか。サラミがうんとのったやつ。
そうね、ユリを食べるわけにはいかないわね。
マロリーが眼を細める。いいわ、電話するわね。
蝶子さん。
マロリーの背中に、サトルが声をかける。
食べてみたかったな。蝶子さんの、秘密の失態作。だってまだ、すごくいい匂いがするよ。

マロリーは、傍らのガラスの花器に活けられた大輪のユリをみつめる。蝶が、このうつむいた巨きな花の蜜を吸うには、ふだん口吻に巻きとってあるその筒状の舌をながく、気が遠くなるほどながく伸ばさなければならない。この花は、ある種の舌たらずの蝶に蜜をむさぼられないように、頭を垂れて用心深く咲き誇るのだ。つよい香りをふりまきながら、蜜までの距離はとてもながく、くるしい。喉から手でも出してみな、マロリー。突如ユリが押し殺した口をきいたような気がして、思わず眼をそらす。いいえ、わたしはあなたに手を出す気はないわ。

だってわたしは、動けないんだもの。

先刻までピザの脂にまみれていた指が、まるで造作(タッチ)が変わる。ふんだんな白に、すこしの黄と赤、そして青。眼の前でその指が練りあげる神秘的な肌の色の油に、マロリーは毎度、ちいさく息をのむ。
「蝶子さんったら。我慢だよ」
「ごめんなさい」
サトルは日本から遊学にきた画学生だ。マロリーは多少の日本語が話せるために、かつての教授に頼まれて彼のモデルをしている。

――サトルは英語が堪能だが、できるかぎり、日本語で話してくれ。きみの愛嬌たっぷりの舌たらずな日本語なら、あの気難し屋もすぐになついてくるだろう――。

サトルは肌の色の油を、その黄みがかったしなやかな指でカンバスになすりつける。絵筆はとらない。荒い画布のうえで、彼の指先の温(ぬく)みでとろけた肌色がしっとりと塗り重なっていく。するどい眼差しが、マロリーの肌のうえをうつろに這い、その指が、画布のうえの彼女の頬をかすめて肉の厚みをたしかめ、顎の線をゆるりとなぞり、つ、と首筋を流れ、ふ、と肩のくぼみにおちる。キャンバスをせわしなく愛撫するように這いまわるサトルの指先を、マロリーはいつも脳裏に、鮮明に描きだす。
「まだ完成させたくないな」
「え?」
「なんでもないよ。そうそう、蝶子さんの頬の蝶、調べたんだよ」
ルリウラナミシジミ。
ルリ?
ルリウラナミシジミ。頬のアザはオスの色だね。メスは白っぽいけど、オスは美しい青色なんだ。とてもちいさくて可憐な蝶だよ。
サトルはポケットからちいさなガラスの小瓶をとりだし、かるく振ってみせる。青く光る砂のようなものが入っている。
だからね、ルリウラナミシジミの標本をとりよせて、羽根を砕いた。たっぷりの白に、すこしの黒、それに、ほのかなルリウラナミシジミの鱗粉。これで頬の蝶がみごとに浮きあがるよ。
そう言って、無邪気に微笑むサトルを、マロリーは、どこか焦点のあわないおおきな瞳でみつめかえす。サトルが乳鉢で蝶をすりつぶす様を想像する。さりさり、と音を立てて崩れるもろい羽根。
もろい、からだ。
気がつくと、サトルがじっとマロリーをみつめている。
「蝶子さん、疲れたんだね。ぼくも疲れた。すこし休憩しようか」
「――ええ。紅茶、いれるわね」

キッチンに立って、乱れた息を調える。湯を沸かし、アールグレイの缶を手にとり、角砂糖をいくつかソーサーにそえる。ダストボックスにいれたはずのラザニアの死臭が、ほのかに鼻をつく。
クッキーはあったかしら?
次々と戸棚を開けはなち、クッキーの缶を探しながら思う。画が完成したら、サトルがここに通う理由は何もなくなる。
紅茶とクッキーをたずさえて部屋に戻ると、マロリーはちいさく息をのんだ。
サトルが椅子にもたれて眠っているのだ。
ふと、彼の生成りのスニーカーの紐が、はらりとほどけているのが目に留まる。テーブルにトレーを置き、思わずそっとかがんで結ぼうとして、手を止めた。
日本では、これを蝶結びというそうだ。いっぽうが引けば、いつでも容赦なくふりほどけてしまう。ふたりの関係ははじめから、このうつくしくもはかない蝶結びだったのではないかーー。

サトルは、まだ、とても若い。
マロリーは、そのあどけない寝顔に眼を細める。自分には蝶結び以外で、彼を縛ることなど、できない。

蜜ばかり吸って暮らす蝶も、ながい旅にでるまえには、いきものの背中にそっととまって、ながい舌をだしてその汗を嘗めとり、わずかばかりの塩を摂取するという。マロリーは眠りこんでいるサトルの、無防備に晒された汗ばんだ首筋をみつめる。はだけたシャツからのぞく鎖骨のくぼみにうっすらと汗の光がたまっている。マロリーはためらわずそこに唇をつけ、ゆっくりと舌を這わせ、しずかにすすりあげる。窓辺で、金の縫い取りをされた葉が揺れさざめいている。木漏れ日が音のない散弾銃のように、彼女の頬を乱れ打つ。左頬の蝶が、その青い鱗粉を輝かせるように、ちらちらとまたたいている。
ふいに顔をあげたマロリーは、思い出したように、カウチに脱ぎ捨ててあったキモノを羽織った。

いきものは、まだ、すこやかな寝息をたてている。